Patagoniaアンバサダー岡崎友子さんが綴る「ALOHA」。第一回目はマカハの女王、レラ・サン。
彼女の功績はいまだに受け継がれ、多くのキッズサーファーを生み出している。
オアフ島・ハレイワのパタゴニア ストアに飾られているレラの写真は、多くのパタゴニアのカスタマーを見守り続けている。
レラはパタゴニア、ハレイワ店をオープンする際に、アドバイザー的な存在で協力を惜しまず、店内の調度品もレラの私物が飾られている。
今もなお、その私物を見に来るレラの友人もいるそう。
時代を経てもなお彼女のアロハスピリットは生き続く。多くの人の心と共に。
ハワイアンが誇りとするハワイのレジェンドは数多くいます。
女性ではマカハの女王と呼ばれるレラ・サンはサーファーの間だけでなく多くの人に慕われ、尊敬された女性だと言えるでしょう。
サーフィンだけでなくフラ、潜り、ライフスタイル全てにおいて昔ながらのハワイアンスタイルで、決してお金持ちではなかったけれど、
多くの人がレラさんの家に泊まらせてもらったり、親が働いている子供、
家庭事情が複雑な子供が癒しの場所として集まってくるようなオープンな空気を、
彼女はいつも周りに漂わせていました。
そして彼女は古代のハワイアンがそうであったように自分の周りのすべての人たち、
動物たち、海の生き物、食べるもの、木々、空、波に敬意を持って生きていました。
初めての女性ライフガードとして海で働き始め女性のキャリアとしての道を切り開き、
インターナショナルプロウイメンズサーフィンアソシエーションの初代創立メンバーとして、女性のプロサーフィンの基盤を作りもしました。
プロとして世界中の大会を周り、先駆者として活躍しつづけ、ハワイにいるときは地元マカハでライフガードをしていました。
でも彼女のことを説明するときのそのことをまず話す人があまりいないのはそれ以上に素晴らしい功績を彼女がたくさん残した行ったからなのだと思います。
30年ほど続いているメネフネコンテストは、すべての子どもたちがサーフィンを楽しめるコンテストとして彼女が始め、
勝ち負けにこだわらずどんなことももウイナーの気分でかえっていけるだけの賞品や楽しみ方で構成されたキッズイベントの走りでした。
そこから何人のワールドチャンピオンが育っていったか、両手だけでは足りないほど。
今でもメネフネコンテストはキッズがプロへの道を進む登竜門として考えられているし、
各地でメネフネを見本とした楽しい、キッズに海に楽しさ、波乗りの素晴らしさを感じさせるためのコンテストが開かれるようになりました。
彼女はこれを何十年と続け、彼女のおかげでサーフィンを続けてプロになった選手から感謝されています。
80年代後半、から90年代にかけてパタゴニアがクライミングや雪山のアウトドアウエアとして知られていた頃、会長のイヴォンシュイナード氏がサーフィンに関わっていこうと考えたとき、何人かのキーパーソンと思える人に相談し、
彼らとのミーティングを重ねてサーフラインをラウンチしました。
その、初期のアドバイザーの一人としてレラは重要な役割を果たしていました。
当時ベンチュラオフィスのレディーススタッフはほとんどサーフィンをしていなかったにもかかわらず、
レラがみんなをインスパイアーし、彼女の持ち前の明るさとポジティブな態度で。
彼女がオフィスに来るとその明るさが1週間はオフィスに残り、みんながサーフィンへのモチベーションを上げ、毎日明るくオフィスに帰って来るほどだったと聞きます。
彼女は世界中どこに行ってもそうやって多くの人にハワイのアロハスピリットを感じさせ、自分もそうありたいと思わせる影響力を持っていたのです。
エネルギーの塊のようにサーフィンや潜り、旅を続けていたレラですが、ある時具合が悪くなり、病院でがんと診断されました。
親友であり、同じ年も子どもを持つシングルマザー同士であり、サーフィンでも常に大会でライバルだったジニー・チェサーが彼女について語ってくれたことがあります。
「彼女はね、素晴らしい人なんだけどとにかく時間に遅れてくるの。8時に待ち合わせしても絶対10時ごろにしか来ない、だからサーフィンに一緒に行こうと言ってもビーチで待つことはせず、先に海に出ちゃうの。すると大体海から上がってくる頃に彼女がやってくるわ。
とにかく何でも時間より遅れてきたけどそういう意味では彼女は自分自身のお葬式にまで随分遅れたからね笑」
余命いくばくもないと言われながらも彼女はその診断をすっかり覆す闘いを繰り返し、その後何年も生き続けたのです。
ガンをわかってからも彼女はからの許す限りサーフィンを続けていました。
ある時具合はひどくなり、
昏睡状態になった時がありました。
もう危ないかもしれない、彼女のベッドの周りで親しい家族や友人が心配しながら見守っていました。
「その時私は波に乗ろうとしている夢を見ていたの、とってもマッシーでなかなか乗れない小さな波に必死にパドルして寄ろうとするんだけど全然乗れない。
何で乗れないんだろう何で乗れないんだろうと思いながら、やっと一本乗れて.
あーよかったーと思った時、心電図でも私のコンディションが安定し、そして私は昏睡状態から目が覚めたのよ」
世界中でたくさんの素晴らしい波を乗ってきた彼女だけれど、そのなかなか乗れないマッシーな一本は彼女の命を救った一本の波だったのです。
やせ細り、自分で立つこともできないほど弱ってしまってからも,
彼女は海に車椅子で連れてきてもらうことを喜びました。
どうしても波乗りが忘れられず、そんな彼女のためにみんなが彼女をビーチに運び、
ボディーボードに乗せて、それに捕まって波に乗れるように手助けしたりもしました。
オアフ島ウエストサイドで彼女の世話になったことがない人など老若男女誰一人いなかったので、
誰もが彼女のために何かできることはないか、何んとかして彼女を救えないか、切望し、行動していました。
「アロハスピリットとは見返りなど一切考えずに動くこと、与える物がなくなるまで与え続けること」
そうレラは教えてくれました。そしてそんな行動をありがたく受け入れ、また先につなげていくこともアロハスピリットなのだと思います。
レラの思い出を語るとき、誰もが優しい、そして美しい表情になります。
それはハワイのコアな部分にある価値、自分たちの持っている素晴らしさを誇りに思うような感じ。
温かい気持ち、親切は与えられた人の心も温かくし、その人も他の人の心を暖かくするべく行動してくれる、
そうやってアロハが伝わり、広がっていく様子ほど美しいものはありません。
岡崎 友子
鎌倉で生まれ育ち、16歳でウインドサーフィンを始め、すぐにその頭角を現すとプロウインドサーファーとして世界を回り始める。
1991年にはウェイブライディングの世界ラインキング2位という結果をもたらし、そのほかの多くの大会でも決勝進出など活躍する。ただし、その後に気の合う仲間たちと良い波や風をもとめて旅をすることの方が点数を稼ぐよりも楽しいと思うようになる。
その後は、ウインドサーフィンに限らず、
スノーボードではアラスカやそのほか多くの大きな山を滑る初の日本女性スノーボーダーとなり、
カイトサーフィンでは女性のパイオニアとして世界を旅し、スタンドアップパドルでは、波乗りやレースを楽しむとともに長距離レースやダウンウインドレースのサポートもして、道具が変わってもいい波や風、雪を求めて旅を続けるスタイルは変わらず。
旅や出会った人たちから受けるインスピレーションをテーマにフリーランスのライターとしても活動中。
また、女性のためのウィンド/カイト・キャンプにも情熱を注ぎ、「海は想像以上のものを与えてくれる」と彼女は確信している。
ブログ:http://windmaildiary.blogspot.jp
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